2011年10月13日木曜日

ワインの深淵

自分の誕生日にはフォアグラとソーテルヌと決めていたので今夜はその通りにした。他にエビグラタン、ランプフィッシュの卵、サラダ、バゲット、チーズ、タルトタタン、アールグレイ、それに嬉しいバースデイソング。成城石井で買ってきたフランス産ガチョウのフォアグラは今ひとつ満足感に浸れない代物で、これなら、自分でフレッシュのフォアグラブロックから作った方がずっと美味い。クリスマスにはまた作ろうと思う。

ところで、美味と美酒の組み合わせは色々言われるが今日の組み合わせは本来なら良いものであろう。有名な生ガキとシャブリ、キャビアとシャンパーニュという組み合わせは、単に高級な物同士の組み合わせでしかないし、むしろお互いを不味くしてしまう。この「食事に何を合わせるか」という話だが、一流ソムリエとされる田崎氏の持論に私は猛烈に反論したい。彼は、食材に含まれるエッセンスと同じ要素を持ったワインを合わせるのだ。例えば、カエルに石灰の様な香りがあるから、合わせるワインは石油香のあるリースリング、というのだ。これは、一見理論的に聞こえるし、説得力がある。しかし、これは客に薦めた高いワインに反論されないための彼なりの理論武装だと思う。私の意見は全く違う。「マリアージュ」というのは、全く別の種類のものが合わさって初めて生まれるものというのが私の考えだ。人間同士の「結婚」もそうかもしれない。それでは、濃厚なガナッシュのデセールに合う飲み物は何か。田崎氏の理論からすれば濃くて甘いココアということになろう。さて、それはいかがなものか。では、私の正解は何か。砂糖抜きのエスプレッソだ。もっと簡単に言おう。餡団子にお汁粉を合わせるか?緑茶でしょ?「全く違う者同士が出合いお互いを高めあうこと」。それが私の考える「マリアージュ」だ。そうでなければ、神は何故違う人間をこんなにも創造したのか。(私は無神論者なのだが。)

バブルの時代、ワインブームというものがあり、私も随分と飲んだ。私は何かに嵌ると、熱中し、その分野の頂点を体験し、納得し、冷却する。私のワイン探求は初めは名もなきボルドーシューペリュールから始まった。この時、今まで飲んでいたものとは全く違う風味、葡萄由来では無いと思わせる味に驚いたのだ(今では解明しているが)。そして、ボルドー、ブルゴーニュ、ソーテルヌに興味が湧き、しばらくバローロやバルバレスコあたりをうろうろとしてみたものの、ボルドーに戻りポイヤックやポムロールに捕まり、その後、一気に有名ワインを飲み比べた。ラトゥール、トロタノワ、イガイ、ディケム、クリュグ、ドンペリニヨン、ラフィット、パルメ、オーブリオン、ムートン、エシェゾー、グランエシェゾー、シャトーマルゴー、DRCリシュブールとロマネサンヴィヴァンとラ・ターシュ、ペトリュース、モンラッシェ・・・。この頃の私の夕食は、ビゴのルヴァンというパン、バター、ワイン一瓶、以上。その後、倒れ込むように就寝、という日々だった。
一番美味しいと感じたのは赤はシャトー・ラトゥール、白は、ドメーヌミシュロ・ムルソー・ジュヌヴリエール、飲むのに一番緊張したのは元町のフレンチレストラン霧笛楼で飲んだ1940年のボルドー・マルゴーのローザンガシイだ。コルクを抜くソムリエの手が震えていたのを今でも思い出す。

しかし、しかしなのだ。最近、チーズは同じ銘柄であっても、レストランで最高の熟成具合でいただくのと、スーパーで気軽に購入したのとでは全くの別物(カスタードクリームと消しゴム、香水と塩水ほどの違いだ)ということに驚いた事をこのブログにも書いた。だとしたら、私が飲み尽くしたと思っていたワインは本当の味だったのだろうか?私は思う。ワインは生まれ、よちよち歩き、成長し、成熟し、枯れ、死ぬ。それも同じボトルの中で。おそらくは、最高の輝きを見せるのは一瞬だろう。多くの女優がそうであるように。
開高健「ロマネコンティー1935」を読みながら、私はそこに登場する最高のワイン、ドメーヌ・ド・ラ・ロマネコンティーのラ・ターシュを飲んだ。その時は、そこに正に書いてあるにもかかわらず、思いもよらなかったのだが。

オフィスプロモ株式会社 代表取締役 古荘洋光







シャトー・ムートン・ロートシルトは毎年異なる画家によるラベル(1973年ピカソ、1988年キースヘリング等)が有名だが、この1993年のアートは アメリカでは販売の許可が下りなかった。幼児との性交渉を想起させるというのがその理由で、この年、アメリカでのラベルは白紙となっている。私がラベル買 いした唯一のワインだ。ムートンでは他に、1979年シャトームートンバロンフィリップ、1980年シャトームートンロートシルト、1993年ルセカンド ヴァンドムートンロートシルトをいただいた。繰り返し試したのは感動がなかったからだ。その名声の在りかを確かめたかったのだが、しかし、私には最後まで 見つけることができなかった。私には広告に長けたブランドをより厳しく評価する癖があるのかもしれない。